山小屋建設の発端については私も詳しいところを知りません。
前年の赤穂でのOB会でS47 松井さんに聞いたところでは昭和49年
頃に話がはじまりそのころから候補地を探し始めたようです。
詳しいことを御存知のOBの方がありましたらメールにてお知らせください。
そんなわけで私が入学以降知るところをここに書いていきます。
昭和56年当時でほぼ3ヶ所の候補地が決まっていたようです。
現在の若狭町糸白見、大山のふもとあたりとあと一ヶ所(どこか思い出せません)。
距離的なとこなどで糸白見は有望な第一候補でした。
そのころは現役幹部はとくに山小屋建設には直接かかわるようではなく
活動内容には全く出てこない状態でした。現役を終えた4年生、5年生などの
有志でほそぼそやっていたとゆうのが1年生であった私の印象でした。
たまたま、一年生の分際で車を所有していた(よくいわれました。今では新車
でも珍しくないでしょうが、そのときの車は10年目の中古車TOYOTA COROLLAです。)ので
糸白見の自治会との交渉に一年生のときからついていったのです。4年生でも
車をもっていた人は珍しくまあ運転手としていってました。
そのころから、何度かいっていたようで上級生のひとたちは糸白見の人たちから
歓迎されていて好感触でした。
いつでも建設ができるところまでは話が進んでいたようでした。
これが部の活動として全員によって進められるまでがその後の大変むずかしい
問題になっていきました。
ここで建設時の幹部や3年生となる56入学の連中というのは中にいた私が
いうのもなんですが客観的に見てもみんなばらばらで好き勝手なやつらばかりの
集まりでした。それぞれはやりたいことがあってワンゲル一本!なんてやつは
いなかったのではと思います。休学して自転車で日本一周するんじゃ〜とか、
大学自治会活動に燃えるんじゃ〜とか、夏休みは山小屋でバイトに専念するんじゃ〜
とか、留年せんように勉強するんじゃ〜とか(当時は教養部2年間で修了しないと
留年しました。英語1単位でもです)なんにもせんと寝ときたいんじゃ〜とか
(誰じゃ?)なんせみんな勝手なもので2年になると夏には部活動を休止したり、
辞めたりで8人いたのが5人になりその中でもほかにやることあるんで幹部は
やらんぞと宣言するやらで役員選挙が近づいてきた10月ごろはどないなるんかと
当事者だけでなく上級生はもちろん下級生も不安になっていたことと思います。
そんなときに糸白見の方から間伐材が大量にあって自分たちで下ろすんだったら
ただで使わせてもらえるとの話があって、でも今年下ろさないと使い物にならんよ
とのことでした。さて、この後いろんな人がいろんな動きをしたのですが....
結局、きっかけは何だったのかいまとなってはわかりません。
既に私たちが気づかないうちにレールはひかれてたのかもしれません。
反対におだてれば木にも登るブタのごとく”山小屋建設”の基にいままで
自分のやりたいことを主張してたやつらが自分の夢をあきらめてもしくは
夢を変えて”山小屋建設”をやろうや!と全員が集まったのであります。
なんか後からこんなふうに書くからいかにもドラマチックに聞こえるので
読んでるみなさんは話半分にして読んでください。(実は自分で書いてて
おはずかしい〜)
OBの方もしくは現役部員の方も共感してくれるかと思いますが、当時の
私たちも2年間を過ごして部を運営していくにあたってこれまでの幹部と
同じことをやってもつまんないな〜なにかアピールする特色をもった運営を
したいと考えていたのでした。なんせ一年間の基本方針を決めるに当たっての
部会は毎年、今年は昨年とどう違う?で何時間もあれやこれや
意見を言いあっていたので(半分前幹部の上級生のいじめ?)思うところは
上級生も下級生も幹部に期待するのはその点だったんだろうと思います。
それを踏まえて今年は今までと違うぞ〜で”山小屋建設”によって私たちの気持ちは
一つになったと回想します。
だからこそその年の基本方針を決める部会は大荒れに荒れたのでした。
私はその時、主務になってたので部会をする場所確保のため毎日奔走していたのです。
従来、一週間程で終わる部会が何日も何日も続くので会議室をとるのにも一苦労でした。
(え?あんたの苦労話はいいって?失礼しましたぁ)
そりゃそうです。やったこともないことを今年の基本方針にするのです。建たなきゃ
大失敗とはっきり優劣がつくのですから。言い出したほうは気合い十分です。
勿論、気合いだけでは建ちませんのでいろいろの周到な準備を重ねたのは言うまでもありません。
でも、ほんとにあのときの上級生も下級生も不安いっぱいだったろうと思います。
上級生はどうでもいいけど下級生(建設時に2年生)にはしっかりついてきてほしかったので
ほんとにいろいろ話し合ったと思います。夏合宿を山小屋建設に当てるにあたって山行の技術レベル
が落ちるのが不安との意見があったので夏季PWは合宿に近いレベルを約束したりもしました。
いろいろありながらも基本方針は承認されて私たちは後には引けぬ”山小屋建設”に
走り出したのでした。
当時のメンバー
部長:石塚忠範 副部長:池田雅弘 主務:吉田茂幸 会計:平井信行
新入生勧誘担当:柴田良久 バルハン担当:土井健 中四合ワン担当:室井真 自然保護担当:溝端章浩
といったところでしょうか?記憶のみが頼りでまちがってるかな?
始めの頃(12〜翌年3月)は山小屋の準備を進めながら(準備:糸白見部落との交渉、小屋図面作成、
作業工程の確認)気持ちの高揚に重点をおいていたように思います。
まずは、新幹部で行う最初の活動である春合宿で集中形式にしたこと。
パーティは屋久島、阿蘇、百姓と各地域はバラバラであったが、最後九重にて集合して
集中ファイヤーでパァっともりあげたのでした。勿論、春合宿自体にもいろいろ
おもしろいはなしがありましたが、それはバルハン第16号にお任せします。
細かいところでは、図面を基にして山小屋の模型を作成したこと(作成者:57 尾崎俊也氏)
大々的なところでは新入生勧誘に勢力を注いだところ。これは柴田さんがかなり力をいれて
教育学部の新入生用資料封筒をもじったワンゲル色のオレンジ袋にはまいりました。
これにひっかかったのは58春藤浩二氏だけだったのですが.....
しかし、努力の甲斐あってその年は例年になく多くの新入部員(14人)が入ってきたのでした。
その後、例年の活動(新人錬成合宿、通学合宿、湖山池一周マラソン、砂丘ボッカ、公開ワンデリング
県内合ワン、大山山開き祭、他PWなど)が目白押しでややもすれば山小屋のことを忘れかけそうな
忙しさに襲われていったのでした。いよいよ夏合宿が近づきこれまで経験のない山小屋建設の
まさにその行動にはいる時期がきたのです。
バルハン第16号、17号合併号より、山小屋建設夏合宿日程
Pre合宿 7/13〜7/14
1日目 トイレの穴堀、草刈り、石運び
2日目 基礎(レベル測量、石の定置)、木材運び
本合宿 7/17〜8/4
1〜4日目 切り出し、枝打ち、皮むき、仕分け、間伐材運び出し
5日目 予備日
6日目 皮むき、柱材用間伐材の搬出
7日目 製材
8日目 加工(工務店で、ほぞ穴ほぞ作りの手伝い)建前の準備(もちつき等)
9日目 建前
10日目 予備日
11〜12日目 屋根ふき 便所作り
13〜14日目 床しき、外壁
15日目 塗装
久々の更新です。
この建設中にいろいろあったことが一番書きたかったことも
あってどう書こうかこう書こうかと考えてるうちに時間が経ってしまいました。
前置きはさておき、本題にはいっていきたいと思います。
将来の仕事を前提において大学に来ているため、建設地の測量では
土木、農業土木科での実習を生かしていたり、小屋設計図面でも機械系で図面実習の
延長で書いてたんでしょう。(ね!平井君)土台となる6個の敷石を埋め込んで
トイレの穴堀で山小屋建設プレ合宿はおわりました。
本合宿は7月中ばより始まったのですが、まずは糸白見よりいただいた間伐材の山中
よりの運び出しです。これが一番の重労働だったのではないでしょうか。
このときちょうど昭和58年山陰西部の水害のあった豪雨がつづいて重労働に拍車を
かけ、はじめからいつまで続くんだろう?の不安がありました。
下ろした間伐材は300本以上、太いものや細いものそのほとんどは細いため側面の壁材
に使用され、2本のいいものは”丸物”と称され天井を見上げたとき2本渡っている
骨組みとして製材せず使われました。
さて、下ろされた300本は八東町の製材所ですべて製材され、ついでに壁材用に
貼り付けやすいよう半分に割っていきました。
このとき、やはりプロの指導が必要であったので糸白見の中村幹工務店の中村さんに
いろいろ指導いただきました。(お店は糸白見のバス停前です)
建前までの基礎となる柱や梁などほぞつくりから組立まではすべて工務店の方々の
機敏な作業によりあっとゆう間にできあがって、みんなあぜんとプロのワザに見入ってました。
ほんとに建前まできたときには目の前に小屋らしき形が現れたのでみんなの意識は
なんか出来上がってきたぞ〜となってきました。今ではいなかでもあまりしなくなった
餅投げのため、臼と杵でもちつきをやったり(あのとき4臼もついたなあ〜。そのとき
一年だった澤田くんはひと臼ついただけで腰にきてたけど)屋根になるコンパネを敷いて
宴会をやって盛り上がっていきました。
山小屋の写真を見ていただいてわかるようにその後の仕事は半割りにした間伐材を壁として
どんどん周りに打ち付けていったのと、45度の屋根にコンパネを貼って屋根材(瓦のような)
を貼っていったのです。これらは結構かかったように思います。なかなか終わらないので合宿が始まって
2週間のところで切り上げました。その間、フロにも入れないので若桜町のガソリンスタンドで
ドラム缶をいただき、近くの鉄工所でふたを切ってもらいドラム缶風呂を作りました。(まだ
残っているようです)
そして一応完成を見た小屋の前で撮った記念撮影がこれです。
そうです出来てしまったのです。その年の夏合宿の成果である小屋です。
しかし、出来た小屋はこれは成果の陽の部分であってこの合宿で残した陰の部分も
ありました。